自分がそれをする理由を人に説明することができますか?
習慣になっていればいるほど、他人にその必要性を説明しづらい気がする。
たとえば、なぜ新聞を読むのか、もしくは読んだほうがいいのか?
わたしはほぼ毎日欠かさず新聞を読む。
朝刊も夕刊も目を通す。
小学生のころからだからもう10年以上続いている。
だからもはや情報収集のために読むというより、もう歯をみがいたり顔を洗ったりするのとおなじだ。
読まないと落ち着かなく、気持ち悪い。
習慣となっている。
新聞を読むことについては、恩恵(メリット)もあると思っている。
1.
自分自身の問題。
いまは現世では絶対に収入にならないような研究が生活の中心にあるけれど、いちおう心を安定させられている。
それは新聞などで新しい情報を手に入れられているからだと思う。
新しいものとふるいものと自分の頭の中でいちおうバランスがとれている。
2.
コミュニケーションの材料。
情報を知ることで、会話のねたも増える。
年代を問わず話ができるのは、大事なことだと思う。
3.
教養と生きるための知恵として。
ヘタな情報に踊らされないようになれる???
考えればもっといっぱいあるはずだ。
でも目に見えるような成果をわたしは説明することができない。
日本の大人は子供に新聞を読みなさい、としばしばいう。
それは日本の受験勉強の科目と関係があるからだ。
国語の論文や社会のテストでは、「時事問題」といって、日本の社会情勢についての一問一答の問題や、自身の意見を問うものがだされる。
新聞を読んでいれば、生の情報を手に入れられるため、有利である。
そのため、大人は子供に新聞を読むようにというわけだ。
実に成果がはっきりと示しやすいしっかりした理由である。
そんなことのために新聞を読むなんてむなしいし、意味がない、とわたしは思うのだけれど。
人に説明しやすいのは確実に後者(受験勉強)だろう。
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家庭教師をしていたときに、生徒たちにしばしば尋ねられた。
「なぜ本を読むのか?」
「なぜ勉強をするのか?」
わたしには不思議でしょうがない質問だ。
考えたこともない。
恵まれた人ならではの質問のようにも思える。
わたしはこの質問に適切に答えを返せたことはない。
受験勉強のため、とも言ってみたが自分がそう思っていないから何やらうそ臭かった。
かといって、教養のため、将来のため、といっても目に見えないことに生徒たちは納得してくれない。
それからずっと考え続けている。
なぜ、それをするのかを。
わたしは自分の教養のために、本を読むし、勉強をする。
それでお金が稼げるとは思っていないからこそ、のびのびとやれる。
人と人との関係は深くつっこみすぎるとたまに痛い目にあうし苦痛なときもある。
でも、本や勉強は大きく腕を広げてわたしを包み込んでくれるような気がする。
幸せになれる。
だから、本も読む。勉強もする。
(個人的に実利のみを求め何かをすることは好きじゃない。)
(そればかりでは美しくないし、スマートではないように思える。)
(目にみえないものを大切にしたい。)
(教養は体の中にしまいこまれるもの、人に押し付けたらもうそれは教養ではないようにもおもう。)
(これを言っていること自体がナンセンスだというのはわかっているけれど。)
(知識ははかなげに匂いたつようなくらいでちょうどよいのではないか。)
2008年7月27日日曜日
説明できますか?
2008年7月26日土曜日
継続は力なるか
ちょっと前にyahoo japanにあるニュースが流れた。
ある中堅不動産会社の民事再生法申請を伝えるものだった。
民事再生法=倒産?かはわからないけれど、限りなくそれに近い匂いがする。
少なくとも景気のいいニュースではない。
イニシャルZの会社、日本で最大手とはいえないだろう。
わたしがこの会社の名前を知っていたのは、カンボジアの開発にかかわっていたからだ。
経済特区を作ろうとして、日本人駐在員を長らく募集していた。
何気なく目にしたその名前はいつのまにか脳裏に焼きついていたのだった。
経済特区の話はもう何年も口にされていたが、実際に開発は順調になされていたのだろうか?
そのあたりについては、わたしは知らない。
だが、日本人駐在員募集の広告は、本当に募集する気があるのかしら、と首をかしげたくなるぐらい、情報がとぼしいものであったことを記しておきたい。
この先はどうするのだろうか?
Zの会社のサイトでその情報を知ることはできなかった。
ついでに韓国資本の42階建てゴールデン・タワーも颯爽と登場したものの、最近は工事が滞っていると知り合いから聞いた。
最初はすべてが真新しい。
新鮮で華々しく、格好の良いスタートが待っている。
ひとびとの注目も集める。
でも、続けていくということは、けっこう泥臭いものであり、平坦な道ではないのかもしれない。
評価されないときもある。
覚えの無い批判を受けることさえあるだろう。
継続は力なるか?
それは当事者と相手との関係性で決まっていく?
続けていくことがいちばん難しい。
しかしながら今回は当事者の自滅(ひどい言葉かもしれない)で幕を閉じてしまいそう。
残念だな。
2008年7月12日土曜日
ありがとう、なんちゃって
雷の音が轟く。
雨が急にざあざあと降り出した。
いよいよ夏が近づいてくる。
梅雨は夏の使者にとってかわられた。
7月も半ばです。
日本人は、ありがとう、という言葉がすきだ。
というよりも、何かを相手にしてもらってそれに対して即座にありがとうとお礼をする様式を愛していると思う。
自分もそうするから無意識に相手にもそれを求めている。
言わない人は無作法者だと考えられてしまう。
クメール語では、ありがとうはひとまず、オークンと訳される。
カンボジアにかかわる日本人もまずこの言葉を覚えていくのではないだろうか。
覚えやすい言の葉、オークン。
カンボジアで、オークンというと、怪訝な顔をされるときがあった。
どんな些細なことにも、いちいち笑顔でオークンと言っていたから。
もっと大きなことについては、オークン・チュラウンといった。
むこうの友達はあんまり言わないなあなんて思いながら。
それはそれでしようがないな、でも、こっちのほうがいいはずと思っていた。
しかしながら、最近ある本を読んでうならされた。
筆者も日本人で、わたしと同じようなことを考え、外国の友達に、ありがとう、と言い続けていた。
一方で外国の友達(カンボジアではない)は、筆者に何かをしてもらってもけっしてありがとう、とは言わない。
筆者はそんな状況にいらいらして、とうとうその友達に尋ねたようだ。
「なぜ君はありがとう、と言わないのだ?」と。
友達は答えた。
「わたしたちはその言葉を使わない。けれどもやってくれたことへの感謝の念はずっと心の中に残っているのだ。」と。
筆者ははっとした。
「日本人は確かに、ありがとうという言葉をたくさん使うけれど、それによって恩をある程度消しているのではないか。」と。
わたしもその考えにどきりとした。
カンボジアの友達が言っていたことを思い出す。
「今日はKさんが僕たちにごはんをおごってくれた。いつかKさんがお金がないときに、今度は僕たちが助けるんだよ。」
彼もまたそのときオークンとは言わなかった。
だが、恩を感じていないわけではない。
日本人だったら、ありがとう、といって半分くらい恩は流しているかも(お礼をするにしても)。
そのとき感じた違和感にわたしはようやく合点がいった。
たすけあい。
この感覚、今の日本人にけっこう忘れられているのではないか。
ありがとう、という言葉は今の日本での生活での人との関係を確かに円滑にする。
表面的に。
しかしながら、その後の面倒な人間関係を、ありがとう、という言葉である程度切り捨てているのかもしれない。
そして、自分が正しいと信じて疑わなかった傲慢な気持ちに赤面してしまった。
わたしはきっと様々なことを教えられている。
しかし、石頭だから本当に気づかない!!!
2008年7月11日金曜日
Khmer unicode for Macintosh 脱落と導入
Khmer unicode for Macintosh最終編です。
なんの解決にもなっていません。
とうとうあきらめの悪いわたしも脱落しました。
だって物理的に無理なのがようやくわかったのです。
悲しいことに、Macユーザーには現在Khmer Unicodeをフリーで利用する手段はなさそうです。
まあ、こんな簡単なこと前からわかっていたことなのですが。
わたしが、それを納得するまでには嘘のような無駄な時間がかかりました。
もうありとあらゆる手段を使って試しましたが、最後までは到達しませんでした。
(くわしくはwith Macのカテゴリをお読みください)
ここまでやれば自分も納得です!
後悔はしてませんよ!
他の用事でクメール語を使いたかったのでxenotypeのクメール語を購入するか、まよっていました。
フォントを購入するなんて、もったいないかなあ(もったいない)と思ったのです。
(クメール語を使いこなせていないので)
しかしながら最近
解決しようとする努力と時間>購入するお金
に完全になっていたので、面倒になって買ってしまいました。
インストールしたらあっさりクメール語が書けるようになりました。
楽々です。
ただし、web上のみです。
ブログでクメール語利用が可能になります。
ただ大きな欠点があります。
一番使いたかったワードでは、脚がくみあわさらないのです。
力がぬけました〜。
文書が書けないと意味がな〜い。
当分ちょっと不自由は続きそうですね。
そんなこんなで報告でした。
お気をつけくださいませ。
早くソフトが開発か改良されてほしいなあ。
2008年7月10日木曜日
コップ一杯の水 ទីកមូយកែវ
七月もなんと三分の一がすぎましたー!
はやい。
梅雨もいつのまにか夏の暑さと切り替わっちゃいましたね。
学会で関西に行っていましたが、東京よりも確実に気温が高くてむし暑かったです。
昼間なんて出歩けません。
発表のほうもなんとか終わりました。
いろいろな人に会えただけでも十分有意義な時間でした。。。
やってよかったし、行ってよかった。
何事も学べます。
誰しもがコップ一杯の水をもっています。
そのコップをどの器に、どのくらいの量入れるかはそれぞれの自由です。
先週のわたしは勉強のほうに1、あとはゼロでした。
そんな毎日だけだと疲れてしまうから徐々に他の器にも水を移していきます。
ブログもちょっとずつ更新していきたいです。
